住所:〒105-0004 東京都港区新橋2丁目9−13
開業:1933年
創業当時や吉田氏が過ごした少年期は戦前~戦中、戦後と食べ物が全く無い時代。
「若い人には分からないと思うよ。その当時は食べれるものにありつくことが本当にできなかった時代。お茶漬け屋を始めた理由も本当のところそこにある。」と店主の吉田氏に開業当時のことをお伺いした。
吉田氏がお店を開業されたのは今から半世紀以上前、日本がまだ戦後の混乱で苦しんでいた頃のこと。今と違い物が無く、皆の心にあったものはまず食べることだった。吉田氏は当時早稲田大学に通っていたが、4年生だったある時体を壊し、そのせいで留年を余儀無くされた。費用もままならなかった為そのまま中退。お茶漬け屋を始めたきっかけは手に職も無い自分が出せる唯一のものだったことと、残ったらご飯にありつけると思ったからだった。
「就職難だったからね。中退の奴を雇ってもらえる所は無かった。最初はお茶漬けと言っても今と違ってお茶なんて高くて買えなかった。塩とお湯をご飯にかけただけのものだったよ。」と吉田氏。
「でもね、真面目にやってるとね、そりゃあ嫌でも上達するよ。」と笑いながら話ししてくれた。
今ではおよそ30種類にも渡るお茶漬けを常時提供し、お茶漬け専門と謡いながらも、刺身やお酒のアテなどを数多くラインナップした老舗名店に育った。
「僕はどこかで修業なんてしたことは無いから。全て独学。だから馬鹿にもされた。」とその当時のことを話してくださった。「今でも馬鹿にする人もいると思う。」と吉田氏、しかし大切だったことを振り返れば目標は「食べること、食べていくことだった。」
「今の人は“粘り”が少ないよね。諦めずに粘る。真面目にやっていくこと。真面目にやっていけば必ずお客さんが付く」と教えて頂いた。
繁盛の秘訣は真面目に長くやっていく。それだけ。吉田氏は御年85歳、お店に立って60年を迎えた。大きな休みは体を壊したときに取っただけだと言う。
「周りの同級生には上場している大手で社長をやっている仲間が沢山いる。」「なんで俺だけこんな“しょっぱい仕事”(儲からない)してんだろうなぁ。と思ったこともあったよ。」
「でもね、60、70歳を過ぎてね、彼らも引退する。俺は文句言いながらもね、こうやっていくつになってもこの仕事をやれることに最近ようやく幸せを感じてきたんだよ。」と笑いながら教えてくださった。
お店は20年続ければ周りが褒めてくれる。
30年続けるとまだやってる。と言われて
40年経つと心配され始める。
50年やると、もうやめろ。と言われるんだ。とこれも冗談まじりに吉田氏が教えてくださった。
空港の施設やビルの施設に出店して欲しいという依頼をもらったこともあったという。
しかし、吉田氏は自分の出しているお茶漬けはそんな大層なもんじゃない。皆にとって身近に食べれるものでありたい。と全て断ったそう。
かれこれ30年以上一緒に仕事をされてこられ、今はほぼ鹿火屋の料理を全て任されているという野見氏に最後に先輩経営者から後輩経営者へメッセージを頂いた。
「地道に考えて真面目にやること。人の顔を見ながら、人との繋がりを考えれば良いと思いますよ。」と謙遜されながらも教えて頂いた。